08 リゾートホテル モアナコースト 代表取締役 芝野 光(しばの ひかる)さん

この地が好きで、この地に根ざした暮らしが好きな人達と、モアナコースト村を創りたいんです。

リゾートホテル モアナコースト 代表取締役 
芝野 光(しばの ひかる)さん

25年前、鳴門に斬新なリゾートホテルを誕生させた芝野光さん。
地元で生まれ育ち、この地の良さを知り尽くしているオーナーが考案したホテルは、知る人ぞ知る「大人の隠れ家」として
全国の宿アンケートでランキングを飾るほどの有名ホテルになりました。
わずか8室という小規模だからこそ提供できる行き届いたサービス。31歳でホテルオーナーになった芝野さんが、事業を成功させる為に心がけてきたことや、
鳴門の海を遊び場にして悪友たちと遊び暮れた幼少年時代のこと、鳴門の未来のために今考えていることなど、昔も今もホテルのサービスすべてにかかわり続けているオーナーに、ホテルと地域の過去・現在・未来を語ってもらいました。
第1章 事業構想のキッカケ
第1章 事業構想のキッカケ

 創業したとき僕は31才。大阪の大学を卒業したあと、関西の電気設備メーカーに就職していたのですが、「そろそろ戻ってこい」という親父の連絡で帰郷することにしました。3人兄弟の長男ですから、いつかは家を継ぐという意識もあったんです。
 ただ問題は、帰ってきてから徳島でどんな仕事をするか、ということ。親父も祖父も長いこと鳴門市議会議員をしていたのですが、僕は政治にかかわるのは好きではありませんでした。
 幸い実家には先祖から預かっている8000坪という広大な土地がありましたから、それをなんとか活用するような事業をしようと思い、親父に相談したら賛成してくれました。
 では、どんな事業をしよう。
 当時は関西圏とはまだフェリーで往来していましたが、明石海峡大橋が開通することは決まっていました。橋が開通すると鳴門の大毛島は、関西方面からの玄関口になる。
 この地の良さを思いっきり味わってもらうのに、ホテルを創るというのはどうだろう? そんなふうに思い立ち、ホテルの構想を膨らませました。
 ホテルのコンセプトは、「もしトラディショナルな英国人がここでリゾートホテルを建てることになったら、いったいどんなホテルにするだろう?」です。
  「リゾートホテル モアナコースト」は、そんな空想のようなプランから誕生したホテルです。

第2章 創業時のエピソード
第1章 事業構想のキッカケ

 しかし、事業を始めるときには苦労もありました。徳島に帰ってきてしばらくしたら、急に親父が亡くなってしまったんです。新聞の販売店や飲食店、貨物船なども持っていましたから、その整理をするのに3年くらいかかりました。
  それで、やっとホテル事業を始めようと思ったら、今度はどの金融機関をまわっても、どこもお金を貸してくれないんですよね。僕みたいな若造がビジネスプランを持っていっても、「芝野さん、徳島でそんなホテルをするのは10年早いよ」「斬新すぎる」「無理だ」と、かなり断られました。
  いろいろ金融機関をまわったなかで, 地元の信用金庫だけが賛同してくれてお金を貸してくれました。土地を担保にした借金の総額は数億円です。全額、オール、自分の借金です。

 ただ、31歳だった僕は、巨額の借金をしてもまったく不安に思うことはなかったんですよね。だって、「ぜったいに成功する」って信じていましたから。
  日本全国の人々が自分の結婚記念日や誕生日など何かの「記念日」に、僕のホテルに泊まりに来てくれたら…。本当にいいホテル、いいサービスを提供すれば、全国から予約が入り全8室が365日満室になる、って真剣に思っていました。

 それで、本物のホテルやサービスをお客さまに提供する為には、実際にヨーロッパの人たちが行くリゾート地を見とかなアカンと思ってね。本物言うたら、イタリアやな。イタリアの中でも南やな、地中海やな、って思って、シシリー島とかそういうとこ見とこうとヨーロッパへ向かいました。
 でも、当時はイタリア旅行と言えばミラノやローマといった北部が中心。南部へ行くには、自分たちで段取りするしかありませんでした。
  それで、インテリアを仕事にしている知人を通じてイタリアの高級家具カッシーナを日本で輸入販売している社長にお願いして旅の宿泊先など手配をし、なんとかイタリア南部の旅に出ることが出来ました。

  初めてのイタリア視察旅行のメンバーは男3人でした。家具屋と、設計士と、ホテルをやろうとしている僕、です。でもね。 リゾート地でしょう。向こうはカップルばっかりで、男3人のグループっていうのは、なんだかとてもヘンなんですよ。リストランテに行っても、ビーチに行っても、すっかり浮いてしまう。そもそも今みたいにどこにでも日本人がいる時代じゃないから、現地シシリーの人にとっても日本人見たの生まれて初めて、って人も多くてね。よく、チャイニーズなのかって聞かれました。
 とにもかくにも現場の空気を吸って帰って来てから、いよいよ創業が現実になりました。
   創業してからも、儲かってもないのに、スタッフの研修として何度もイタリアへ足を運びましたよ。本場のリゾート地のエッセンスを吸収するには、本物を見て体験するのが一番ですから。

第3章 悪ガキ少年時代
第1章 事業構想のキッカケ

  僕のホテルがある鳴門の大毛島は、食材が豊かで景色も美しい。ほんとうに宝のような島です。
僕は地元で生まれ、鳴門東小学校、鳴門中学、鳴門高校とずっとここで育ちました。僕らが小さい時って、遊ぶと言ったら「海にもぐって魚を捕る」とか「山に行ってメジロを捕まえる」ことでした。でも、山に行くのにオートバイを拝借していたのが、ちょっとマズくて、よくセンセイには怒られていましたよ。
  今も僕はバイクが大好きなんですが、小学校5年くらいのときだったかな。友だちの悪ガキの家にカブが3台もあってね。それを友だちみんなで借りて、山へメジロを獲りに行っていました。
うちは先祖代々この土地で暮らしていて、僕は13代目になるんですが、小学校時代はバイクを乗り回したりそういうことをしてたから、学校の先生たちには「お前の家も13代目で終わりやな」なんてことを言われていました。まあ、その先生とは今でも交流が続いているんですけどね。
  海も海で楽しかった。
  我が家は半農半漁でしたから、漁の網やら何やら、漁師道具が小屋にたくさんあったんですよ。子どもながら潮目のいいときというのも知っていましたから、「今日は魚が捕れるだろう」なんて日は、もう授業どころじゃなかったですね。ソワソワして早く磯へ行きたくてしょうがない。
ようやく放課後になったら、じいさんの小屋へすっとんで行って、タテ網を持ち出し、船がないから沖まで泳いで行って、みんなで手分けして網を仕掛けるんですよ。それで、浜に戻って来て野球して、2時間ぐらいたったら、また沖に行って網を引き上げるんです。すると、メバルがわんさか掛かっている! 
  大阪から海水浴に来ていた大人が、たまたまそのようすを見て、驚いていたのを覚えています。
  そういえばクラスのみんなを引き連れて、授業さぼって岩場で遊んだこともありましたね。先生が探しに来ても出て行かなかったら、潮が満ちて来て胸まで浸かり出したんで、仕方なく"自首"したこともありました。

第4章 お客様の要望で始まったウエディング
第1章 事業構想のキッカケ

  ガーデンウェディングを始めたのは、平成元年の創業から6〜7年経った頃です。しょっちゅうご利用いただいていたオシャレなカップルのお客様がいらっしゃいましてね。「結婚式をするんだけど、ぜひここでさせてほしい」とリクエストをいただいたのが始まりです。
 けれども、当時うちにはそういう設備もなかったし、今まで結婚式をやったこともなかった。
そう申し上げたんですが、「場所と料理だけ用意してもらえれば、あとは全部自分たちでやるから」と説得され、庭を使ったウェディングを実施することになりました。
そんな事情で始まった結婚式でしたが、実際にやってみるとものすごくオシャレで素晴らしかったんです。正装の男女が庭でダンスをしたり、演出もお客さまもすべてが大変シャレていました。
新郎新婦はもちろん、列席していただいたお客さまにも大変喜んで頂けました。
それで、結婚式をやってみようということになったんです。
 ただ、当時徳島にはガーデンウェディングなんて、まだなかった頃で、どこに構想を話しても「考えはいいけど、まだ早すぎるよ」「徳島では10年早い」と言われました。
それでも無理矢理やってみると、それを面白がる人が出てきてね。列席したお客さまが「私もここでやりたい」と言ってくださることも増え、全然営業をしなくても春や秋といった季節のいいシーズンの予定がどんどん埋まって行きました。
 初めて実施したガーデンウェディングのほか、結婚式で思い出深いのは、
「象に乗って登場したい」とリクエストをくださったカップルの方でしょうか。
香川にある白鳥動物園の象をレンタルすることができる、ともう調べてありまして。新郎新婦と一緒にお願いに行ったら、オーナーが「いいでしょう」と了解してくれて、実施することになりました。
 ただ、象は猛獣の部類に入るから、調教しないといけないんですね。それで、何度も白鳥に一緒に行って、象が新婦を乗せても大丈夫になるように数回通いました。保健所と警察の許可も取って、準備は万全、だったはずなのですが、当日は歴史的な豪雨になってしまい、象は移動出来なくなってしまいました。
結局、万一の時の為に造っておいたハリボテの子象に乗って新郎新婦が登場する、ということになりましたが、列席された方々にもたいへん喜んで頂き、うちでも5年くらい語りぐさになりました。

第5章 モアナコーストが目座しているもの
第1章 事業構想のキッカケ

 僕ね、これからやりたいのは「モアナ・コースト村」を創ることなんです。
海が見えるこの場所が好きで、人を喜ばせたり驚かせたりすることも大好きな人が集まって、この場所を盛り上げてどんどん情報発信していきたいと思っています。そのためには僕らがイニシアチブをとらないといけないと思っています。リゾートホテルとレストランが核になって、その周辺には志を同じくするモアナ村の住人がいる。
夢はディズニーランドです。
ディズニーランドがあんなに愛されているのは、乗り物や建物なんていうハードだけじゃなくて、そこにいる人、「キャスト」の存在ですよね。
人を惹きつけるのは、結局、人です。瀬戸内の海が見える大毛島というこの場所で、モアナ・コーストといっしょに思いを共有してくれる人が集まって欲しい。
 この地が好きで、この地に根ざした暮らしが好きな人達が集まると、とんでもなく大きな力が生まれて人を寄せることができると思っています。
 そうすれば、市とか県とか、いろんなところに対して要望や提案を伝えることが出来るでしょう。よその人達が「あそこを真似したら良いよ」と言ってくれるような、そういう「ムラ」を創りたいと思っているんです。
 そうしたコミュニティを創ることで、将来大きな資本がきても飲み込まれないで地域として独自の生き方を貫けると思っています。
資本力に負けない戦い方ができる。
心をひとつにしたコミュニティこそ、鳴門・大毛島の未来の姿だと僕は思っています。

25周年を迎えたモアナコースト

スタッフとともに。

大好きな愛車の保管倉庫で。
これは、芝野さんの生誕年(1958年)に英国で生産された名車トライアンフ・ボンネル。
ほかにも、BSA社製の名車スピット・ファイアー(1967年製)やロケットゴールドスター(1962年製)を並べている。

館内に飾られているアイビーは、すべてオーナーである芝野さんが敷地内の葉をカットして生けている。